📚世界の教育はどこへ向かうか 能力・探究・ウェルビーイング
20250522
序章 変わる世界の教育
世界的に教師不足。日本は文化や言語の面でそこまで教師の流出はなかったが、今後はそうもいかなそう。
教師と教育者。教師ではないが教育に携わる教育者という役割が増え、公教育との関わりも増えている。
第一章 教育は何を目指すべきか
経済成長重視の世界観から人々の生き方や暮らし方に関わるような人間重視の世界観に移ってきている。
子どもの「個人の尊厳」を大切に。そのためには、大人の決めつけを排し、対話を通じて考えを聞いていくこと。
第二章 「主体性」を捉え直す
主体性の話にランドセルを一例として出してる。
choiyaki.iconいや、こういうのは教員側や学校側にこそ主体性がないからやろうと感じずにいられない。
choiyaki.icon「「主体性」を重視してきたはずの日本」と述べて前提とされてるけど、その前提が違うとしたらここの話ごそっと的外れになる。で、実際的外れやと思う。
choiyaki.icon申し訳ないけどこの章はツッコミどころしかない印象。
第三章 子供たちに求められる「能力」
ビジネスの世界で考えられたコンピテンシーという概念が、キー・コンピテンシーとなって教育の世界にも。
汎用的・普遍的な能力の育成のための尺度。
コンテンツ重視(何を教えるか)からコンピテンシー重視(どのような能力を育成するか)への移行。
PISAが問う力は、コンピテンシーに立脚したもの。
コンピテンシーは、知識や態度、スキルを組み合わせて用いる力。
非認知能力は、認知能力ではないもの全てであり、何を指すのかが人によって違う。また、コンピテンシー同様、場面や文脈に依存する。
能力を発揮する加減や塩梅を見極めることが大事なことも。
第四章 「探究」の再検討
「活動あって学びなし」にはならないように。
何をするか?ではなく、何を学ばせるか?どんな力を伸ばすか?
諸外国に比べ、日本は「探究」への関心が高い。
「探究」という言葉が多義的になっており、「探究」という言葉を問題解決方学習やアクティブラーニングやプロジェクト型学習やらと都合よく解釈できるからと思われる。
各教科でも探究的に、総合でも探究的に。各教科と総合が相乗効果的に探求していけるような。
choiyaki.icon学校をあげて、全教員が探究を念頭において教科の学習指導にあたるのが理想。
シンガポールも「ゆとり教育」を同じような時期に導入。が、日本はPISAの順位をぐんと下げた一方で、シンガポールはあがっていった。
違いは、生徒だけでなく教師にも「ゆとり」を作ったこと。教員数を増やしたり、スクールカウンセラーや部活動支援員などの導入により。
choiyaki.iconほんまにこれは素晴らしい。教師1人あたりの生徒数が減ったら生徒にとってもプラス間違いないし、支援員が増えたらけっこう変わると思う。
教師が詳しく知らないことをテーマにしていても、それが教科とどんな結びつきがあるかを伝えるのが教師の大事な役割。
第五章 何をどこまで学ぶべきか
コンテンツ主義からコンピテンシー主義に移行してきた。が、これらは二項対立で見るべきでない。
choiyaki.icon目的とその手段と考えれば、そりゃそうやんという風に思うが。どっちも大事に決まってる。
教える側にとっても魅力的なカリキュラムを。
教員に過度に負担を強いるようなものは、たとえ優れててもよろしくない。
終章 これからの教育はどこへ向かうか
おわりに
p204.大多数の先生方は、本当に一生懸命に働いているし、そもそも、学校という仕組み自体が、子供たちのために作られたものだ。それにもかかわらず、不登校の子供たちが約20万人(当時)にも達するというのは大きな矛盾でしかない。
これからの学校のあり方をどうしていくのかは考えるべきと思うが、この考えに立って考えるのは危ういのでは?と感じてしまった。
大きな矛盾なのか?から考えたほうがよいような気が。
シンガポールの事例が興味深かったし、確かに効果があるやろなと思った。それは、カリキュラム面で生徒にゆとりをもたらし、教員数を増やしたらスクールカウンセラーを増やしたりと教師にもゆとりをもたらした、ということ。日本はゆとり教育は批判されたが、シンガポールではPISAの順位をあげた。その順位がすべてではないものの、個々への対応や探究学習など、抱えないといけないものが増えていく一方なので、教師にゆとりがもたらされるとかなり違ってくるよなーと。
主体性について書かれている章は実情をちゃんととらえれてないと感じたし、入試制度への言及が一切ないのは「どこへ向かうか」をとらえきれないとではと感じた。けど、探究の章は勉強になった。